Takuwa

卓話



本日の卓話者
南博之 会員
  • 職業 建設設計
  • 社名 株式会社 服部建築事務所
  • 勤務先 〒530-0041 大阪府大阪市北区天神橋2-3-3
  • 入会年月日 2024年7月3日
  • 推薦者 中山卓三 / 服部貢
2026-09-04 南博之 会員

「建築士は、何を設計しているのか」-図面の向こうにある、人と仕事と未来-

皆さま、こんにちは。株式会社服部建築事務所の南です。本日のタイトルは『建築士は、何を設計しているのか』としました。建築士なのだから、建物を設計しているに決まっている。そう思われるかもしれません。もちろん、私たちは建物を考え、図面を描きます。ただ、その図面の向こうには、建物を使う人がいて、そこで行われる仕事があり、完成後に長く続いていく時間があります。今日は、有名建築や芸術性の高い建物の話ではなく、日々の暮らしや企業活動を支える建築と、その裏側で建築士が何を考えているのかについて、少しお話ししたいと思います。

建築士の仕事と聞くと、建物のデザインを考える、図面を描く、現場で工事を確認する、といった姿を思い浮かべる方が多いと思います。もちろん、いずれも大切な仕事です。ただ、実際の設計は、いきなり図面を描くところから始まるわけではありません。まず、建築主が何を実現したいのかを聞き、土地や既存建物を調べ、法規制や予算、工期、事業上の条件を整理します。そして図面ができた後にも、見積内容を確認し、施工者や行政、構造・設備の専門家と調整し、工事が設計図書どおり進んでいるかを確認します。図面は仕事の成果の一つですが、仕事の全部ではありません。むしろ図面に表れる前の判断と、図面を現実の建物につなげる仕事に、多くの時間を使っています。

建物は、それ自体で完結するものではありません。住宅では人が暮らし、事務所では人が働き、工場では物がつくられます。店舗やホテルでは人を迎え、学校では人を育て、医療や福祉の施設では生活や命を支えます。経営という視点で見れば、建物は事業を行うための基盤となります。当然、使いやすい建物は、人の動きや仕事を支えます。一方で、動線が悪い、暑い、寒い、音が響く、設備の更新がしにくいといった問題は、完成後、何十年にもわたって利用者や事業の負担になります。なので、私たちが最初に考えるのは建物の形ではなく、そこで誰が、どのように過ごし、何を行うのかという人の営みです。建築は、その営みを包み、支える器だと考えています。

建築主の要望は、最初から図面にできる言葉で示されるとは限りません。『社員が働きやすい会社にしたい』『工場を止めずに改修したい』『できるだけ長く使いたい』という思いから始まります。私たちは、その言葉の背景を聞きながら、設計できる条件へ変えていきます。働きやすさであれば、動線、温熱環境、照明、音、必要な広さに置き換えます。操業を続けたいのであれば、工区分け、仮設、工程、騒音や安全対策を考えます。長く使いたいのであれば、耐久性だけでなく、点検や更新のしやすさ、将来の間取り変更や設備増強まで検討します。要望をそのまま形にするのではなく、その本当の目的を読み取り、具体的な条件へ翻訳する。これは建築士の重要な役割です。

建物ができるまでを大きく分けると、企画・調査、設計、見積・発注、工事監理、完成・運用という流れになります。企画・調査では、そもそも建てるべきか、改修で対応できるか、土地や既存建物にどのような制約があるかを整理します。設計では、意匠だけでなく構造や設備、法規、コスト、工程を一つの計画にまとめます。見積・発注では、図面と見積の内容が合っているか、条件の違いや抜けがないかを確認します。工事監理は、施工者に代わって工事を管理することではありません。工事が設計図書と照合して適切に行われているかを確認し、変更があれば建築主が判断できるよう影響を整理します。そして完成後の使われ方や維持管理も、設計時の判断とつながっています。建築士の仕事は、一枚の図面ではなく、この長い流れ全体に関わっています。

建築主の思いを理解することは、設計の出発点です。しかし、希望をそのまま図面にすることが建築士の使命ではありません。建物を使う人の安全、法令への適合、周辺環境や地域への影響、将来の維持管理まで考える必要があります。また、建築には専門的な判断が多く、建築主だけでは選択肢の違いが分かりにくいことがあります。そのとき私たちは、メリットだけでなく、費用、工期、リスク、将来への影響を整理して伝え、意思決定を支えます。ときには、建築主が望まれている方法に対して『それは安全上お勧めできません』『今は安くても、将来の負担が大きくなります』と申し上げることもあります。相手の希望を否定するためではなく、本来の目的を守るためです。建築主に誠実であることと、地域や社会に責任を持つこと。その両方が専門家として求められていると思います。

ここで、実際によくある工場改修の状況を、固有名詞を伏せてご紹介します。工場は稼働を続けなければならない。一方で建物は老朽化し、耐震性も改善したい。生産設備の配置や更新時期が決まっており、予算と工期にも限りがあります。このような案件では、建物だけを見て最善案を決めることはできません。全面的に建て替えるのか、既存建物を活かして改修するのか。一度に工事するのか、工区を分けて段階的に進めるのか。仮設施設を設けるのか、設備の停止時期に工事を合わせるのか。それぞれ工事費、安全性、工期、操業への影響、将来性が異なります。すべての条件を完全に満たす一つの正解があるとは限りません。建築士の役割は、独断で答えを決めることではなく、選択肢と影響を見えるようにし、建築主と一緒に、その事業に最も適した答えを探すことだと思います。

設計と工事にかかる期間は、長い案件でも数年です。しかし、完成した建物は30年、50年、場合によってはそれ以上使われます。その間に、日々の清掃や点検があり、光熱費がかかり、屋根や外壁を修繕し、空調や給排水、エレベーターなどの設備を更新します。事業や働き方が変われば、間取りや用途を変えることもあります。最後には、解体や建替えという判断も必要になります。完成した瞬間だけを見れば合理的に思える選択が、長い時間軸で見ると負担になる場合があります。反対に、少しの工夫が、将来の点検や改修を大きく楽にすることもあります。建築士は、現在の要望を満たすだけでなく、その建物が時間の中でどう使われ、どう変わっていくかまで想像して設計する必要があります。

建物の費用というと、まず工事の見積書に目が向きます。もちろん建設費は重要です。しかし、建物にかかる費用はそれだけではありません。光熱費、清掃、点検、日常修繕、外壁や防水の改修、設備更新、用途変更、そして最後の解体まで続きます。一例では、建物のライフサイクルコストのうち、維持管理が約75パーセントとなっている例もあります。(ただし、この割合は建物用途、使用年数、算定範囲、物価や金利などによって大きく変わります。)建設費は氷山の水面上に見える部分であり、その後に長く続く費用の方が大きくなることが多い、ということです。また、工事中の営業休止や生産停止などは、通常のLCC計算に含めない場合もありますが、経営判断では無視できません。安く建てることが、長期的に経済的な建物をつくることは、必ずしも同じではありません。

最初の問いに戻ります。建築士は、何を設計しているのか。もちろん、答えは建物です。しかし、私たちが本当に見ているのは、建物だけではありません。図面の向こうにいる人、その場所で行われる仕事、周辺の地域や社会、そして完成後に続いていく未来です。建築主の思いを理解し、それを具体的な条件に変える。専門的な情報を整理し、建築主の意思決定を支える。安全性や法規、予算、工程、将来性を検討し、ときには耳の痛いことも正直にお伝えする。そして、建物が長く社会の中で使われていくことに責任を持つ。私は、それが建築士の仕事だと考えています。建物をつくることは、その場所で行われる未来の活動の場をつくることです。図面の向こうにある、人と仕事と未来。そのすべてを考え続けることが、私たち建築士の使命だと思っています。ご清聴ありがとうございました。